「遺言書があれば、遺産分割協議は必要ない」─そう思われている方は少なくありません。故人の最終意思を記した遺言書があれば、その内容通りに相続手続きが進み、円満な相続が実現すると考えるのは自然なことです。しかし、残念ながら、遺言書があったとしても、すべての相続手続きが自動的に完了するわけではありません。
実際には、遺言書に不備があったり、内容が不完全だったりする場合、あるいは相続人全員が異なる意思を持っていたりする場合など、故人の意思を尊重しつつも、改めて相続人全員で話し合い(遺産分割協議)を行う必要が生じることがあります。遺言書は、相続争いを防ぐための「有効な手段」ではありますが、円満な相続を保証する「万能薬」ではありません。
本稿では、相続問題に精通した弁護士が、遺言書があっても遺産分割協議が必要となる具体的なケースと、遺言執行者の役割の重要性について、多角的な視点から解説します。
このページの目次
「遺言書があるから大丈夫」では済まない5つのケース
遺言書は、故人の最後の意思を尊重するための法的な効力を持つ文書です。法的に有効な遺言書があれば、原則としてその内容が優先され、遺産分割協議は不要となります 。しかし、以下の5つのケースでは、遺言書が存在しても相続人全員による遺産分割協議が必要になります。
1. 遺言書そのものに法的な不備・瑕疵がある
遺言書が無効になる原因は、その形式に不備がある場合です 。特に、自筆証書遺言は、財産目録を除き、全文、日付、氏名を自書し、押印するという厳格な要件を満たさなければなりません 。たとえ故人が丁寧に作成したものでも、日付の記載がなかったり、押印を忘れていたりすると、法的に無効と判断される可能性があります。
また、遺言書が有効であったとしても、遺言書に財産を受け取ると記載された人(受遺者)が故人より先に亡くなっていたり、相続放棄をしたりした場合は、その部分の遺言は効力を失います 。この場合、無効となった部分の財産について、改めて相続人全員で誰が相続するかを協議しなければなりません。
これらの事態は、遺言書が持つ本来の目的である「円滑な相続」を妨げる結果につながります。遺言書は、単に故人の意思を書き記すだけでなく、法的な要件を確実に満たし、あらゆる事態を想定して作成されるべき文書なのです。この観点から、専門家による助言は不可欠と言えるでしょう。
2. 遺言書に全ての財産が記載されていない
遺言書は、故人の全ての財産を網羅しているとは限りません。故人が遺言書を作成した後に取得した不動産や預金、あるいはデジタル遺産などの新たな財産が記載漏れとなるケースが多々あります 。
例えば、遺言書に「A銀行の預金は長男に相続させる」と記載されていても、遺言書作成後に開設したB銀行の口座や、急増している仮想通貨、さらにはオンライン証券口座などが記載されていなければ、これらの財産は遺言の効力が及ばないため、別途遺産分割協議を行う必要があります 。
また、不動産についても、登記簿上の地番ではなく住所で記載されていたり、私道部分の記載が漏れていたりと、正確性を欠くことで、記載漏れと見なされ、後から協議が必要になる場合もあります 。このような記載漏れを防ぐため、遺言書の最後に「この遺言書に記載のない一切の財産は〇〇に相続させる」といった包括的な条項を設けることが有効な対策となります 。
3. 全財産を特定の相続人へ包括的に遺贈する内容である
遺言書は、特定の財産を指定して相続させる「特定遺贈」と、財産の全部または一部の「割合」を指定して相続させる「包括遺贈」に分けられます 。例えば、「全財産を妻に遺贈する」といった内容であれば、具体的な財産の分け方を定めていなくても、妻が全てを単独で承継できるため、原則として遺産分割協議は不要です 。
しかし、「全財産の3分の1を長男に相続させる」といった包括遺贈の場合、長男は他の相続人とともに、どの財産を、どのような方法で分けるかを協議する必要があります 。例えば、土地が1つしかない場合、その土地を売却して現金を分け合うのか、あるいは特定の相続人が土地を相続する代わりに、現金で代償金を支払うのか、といった具体的な分割方法を決める必要があるのです。包括遺贈は公平な意思表示に思えますが、現実の財産分割においては、新たな話し合いの必要性を生じさせることがあります。
4. 相続人全員が遺言書とは異なる分割方法を望んでいる
遺言書は故人の意思を最大限に尊重すべきものですが、相続人全員が合意すれば、遺言書の内容と異なる分割を行うことが法的に認められています 。遺言書の内容が、相続人の感情的な問題や、現実的な事情(例えば、長男が地方に移住したため、実家を売却したいなど)に合わない場合、相続人全員の同意があれば、遺言書を無視して改めて遺産分割協議を行い、協議書を作成することができます 。
ただし、この場合、相続人以外の第三者への遺贈(受遺者)がある場合は、その受遺者の承諾も必要となります 。また、遺言執行者が指定されている場合は、その同意も必要となり得ます 。当事者同士の話し合いだけでは感情的な対立が生じやすいため、第三者である弁護士に依頼することで、冷静かつ円滑な協議を進めることが可能となります 。
5. 遺留分を侵害する内容の遺言書である
遺言書で特定の相続人に全財産を集中させる場合、他の相続人の「遺留分」が侵害される可能性があります 。遺留分とは、兄弟姉妹以外の法定相続人(配偶者、子ども、直系尊属)に法律で保障された、最低限の遺産取得分です 。
遺言書がこの遺留分を侵害していても、遺言書自体は法的に有効ですが、遺留分を侵害された相続人は、遺留分を侵害した相続人に対して「遺留分侵害額請求」を行い、侵害された分に相当する金銭の支払いを求めることができます 。これにより、せっかく遺言書を作成しても、死後に遺留分を巡る争いが発生し、訴訟に発展するリスクが生じてしまいます 。
遺留分侵害額の計算は、故人の財産だけでなく、生前贈与や負債なども考慮する必要があるため、非常に複雑です。当事者だけで正確な計算を行うのは困難であり、専門的な知識が求められます。
遺留分侵害額の計算式は次の通りです 。
遺留分侵害額の基本計算式
- 遺留分侵害額
$
=$
遺留分額$
−$
(遺贈または特別受益の価額)$
−$
(遺留分権利者が相続によって得た財産額)$
+$
(引き継ぐ借金の額) - 遺留分額
$
=$
遺留分算定の基礎となる財産額$
×$
個別的遺留分の割合
この計算式からも分かる通り、専門的な知見がなければ正確な金額を算出することは難しく、結果的にトラブルを招く原因となりかねません。
遺言執行者の役割と重要性 – 円滑な相続のための要
遺言書があっても円滑な手続きが困難な事態を回避するための鍵となるのが、「遺言執行者」の存在です。遺言執行者は、遺言書の内容を確実に実現する役割を担い、相続財産の管理から名義変更まで、遺言の執行に必要な一切の行為を行う権限が与えられています 。
遺言執行者がいるからこそスムーズに進む手続き
遺言執行者が指定されている場合、相続人や受遺者は遺言執行者の行為を妨げることができず、手続きへの協力義務を負います 。これにより、相続人同士の意見がまとまらない場合でも、スムーズに手続きを進めることが可能になります。
遺言執行者が特に力を発揮する場面
- 不動産の名義変更(相続登記):遺言執行者は単独で不動産の所有権移転登記を行う権限が認められています 。これにより、受遺者が単独で手続きを進めることができ、他の相続人全員の協力が必要となる事態を避けることができます。
- 預貯金の解約・払い戻し:遺言執行者は、金融機関の預金口座を単独で解約し、相続人や受遺者への払い戻しを行うことができます 。遺言執行者がいない場合、通常は相続人全員の署名と実印が必要となり、手続きに多大な労力と時間がかかるため、この権限は非常に重要です。
遺言執行者がいる場合といない場合とでは、手続きに大きな違いがあります。例えば、預貯金の解約手続きでは、遺言執行者がいれば単独で必要書類を金融機関に提出し、手続きを進めることができます 。一方、遺言執行者がいない場合は、相続人全員の署名と実印が押された遺産分割協議書が必要となることが一般的です 。不動産の名義変更(相続登記)についても同様で、遺言執行者がいれば単独で登記申請ができますが、いない場合は不動産を相続する相続人全員が共同で申請する必要があります 。これらの書類収集や手続きの準備は、遺言執行者が主導して行うため、相続人全員で協力して行う場合に比べて、手続きが円滑に進む傾向にあります 。